宇喜多秀家の墓(大賀郷東里)
 宇喜多秀家は、豊臣五大老で、岡山57万4千石の太守でした。関が原合戦に敗れて、慶長11年(西暦1606年)8月、秀家とその息子である秀高・秀継、家臣10名の主従13名が八丈島に流罪となりました。これが、八丈島の流刑第1号です。
 秀家は49年の流刑生活を送り、明暦元年(西暦1655年)11月20日(享年83歳)になくなりました。
 最初の墓は左側の約80センチの位牌型の石で南無阿弥陀仏とのみ彫ってあります。これは、流人にきちんとした墓が許されていなかったためです。四代秀親の時に戒名(尊光院殿秀月久福大居士)が許され、天保12年(西暦1841年)九代秀邑の時に右側の五輪塔に改められました。後に、岡山城天守閣の礎石がすぐ脇に置かれました。